さるたに秘密メモ@はてなブログ

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超クソゲー3 雑感あれこれ

クソゲー」という言葉を生んだのはみうらじゅん氏だという通説は真偽の程があやふやですけど、「クソゲー」ブームを生んだのが『超クソゲー』だというのは多くのゲームオタクが認める定説でありましょう。

超クソゲー (QJブックス (03))

超クソゲー (QJブックス (03))

『超クソゲー』が出版された頃のゲーム業界は64で失速した任天堂の後釜を狙うサターンとプレステが相次ぐダンピング値下げや煽り合いイメージ戦略による熾烈なシェア争いを繰り広げ、一方でユーザーサイドは一般に普及し始めたインターネット上のフォーラムやテキストサイトによって以前とは比べ物にならない発言力を手に入れた、オタクにとっては眩いばかりのエネルギーに溢れた時代でした。
 
好景気に浮かれた既存メーカーと「マルチメディア」とかの言葉に踊らされた新興メーカーの迷走が生んだ怪作、出来は良くてもセンスや知名度の不足によってワゴンの山へ埋もれていった名作、そんなゲームたちをネットで頭角を現したクソゲーハンターたちは分け隔てなくブッた斬り、確かなようで実は曖昧な「ゲームの面白さ」というものを解体してしまいました。
 
無名でも遊んで楽しいゲームは褒め称え、ダメなゲームは徹底的にブッ叩くことでオタク同士のコミュニケーション素材として楽しむという『超クソゲー』が示した価値観は、ゲームオタクはもちろんゲーム業界の周辺にも多大な影響を与え、突き抜けたダメさが面白さと同じくらいに評価されるという逆転現象まで起こりました。
 
…しかし今や景気は低迷し、価格破壊なんて言葉も今さらとなりました。
基本無料のゲームがありふれたものとなり、面白いかどうかも分からないゲームへ金や時間を費やすなんて物好きなマニアだけ、ましてやつまらないゲームへ限られたリソースをつぎ込むなんてもってのほか。
 
なまじゲームが一般へ浸透した上に芳しくない世相も相まって、ゲームの楽しみ方が薄まった感のある現在に復活した『超クソゲー3』は、我々に何を見せてくれるのでしょうか。
超クソゲー3

超クソゲー3

 
『超クソゲー』『同2』と今回の『超クソゲー3』における違いとして目に付くのが、駄作をブッ叩くよりも隠れた良作へ光を当てた記事の方が目立つという点です。
 
クソゲーに引っかかって俺様のクソ貴重極まる時間と金を無駄にさせられた! Fuck!! こうなりゃクソがクソたるクソな所以をクソミソに叩いてクソな元を取ったらぁ!!
という尖ったパッションが鳴りを潜めたのは、ゲームを叩くことに当てていたリソースを自分たちを含めたゲーオタたちがより幸福になる方向へシフトしたという、クソゲーハンター諸兄の成熟ぶりを示しているのではないでしょうか。
 
だから! 駄目ゲーと和解するんだ!! お前が駄目ゲーを許すことを俺が許すからお前も許せる範囲で許すことを許せ!
どうしても許せなかった場合は…火をつけて燃やせ(えっ?)。
何もなかったことにすれば、心は楽になる。なんかもうわけわからんが、とにかく和解せよ。
※ナイスゲームズ Vol.8 ゲームレジスタンス(著:原田勝彦)より引用

  
駄目なゲームもネタとして楽しみ、多くの人が知らないゲームを発掘して世間の大多数が知る事のなかった楽しみを享受する貴重な機会を得た優越感…クソゲーやマイナーゲームを全身全霊で楽しむクソゲーハンターたちの武勇伝は、その気になれば彼らの楽しさを我々にも追体験できるという点を含めて貴重な価値があります。

しかしこのシリーズにおける大きな課題として、クソゲーとは常識の枠に収まらない、飛び抜けた何かを秘めたゲームのことだ」という定義の元に大ヒットゲームも特売ワゴンに埋もれたマイナー作品も全てフラットな視線から評価するというテーマが、「クソゲー」という言葉のインパクトに押し潰されてしまっていることは否めません。
 
ネットでの反応を見ていると、『メタルウルフカオス』がフィーチャーされている表紙に、この本が俗に言われる「クソゲー」に限らず幅広い作品を扱っていることを知った上で反発している人たちの意見が散見されたのですが、これも「クソゲー」という言葉のインパクトがもたらすマイナス方向な影響力をよく知っているからこその反応だと思われます。
批判するなら”本誌における「クソゲー」の定義”を理解してからにしろ、という見方もありますが、「俺定義」による言葉を前提としたコミュニケーションは大抵が不毛な結果に陥るものであることを考えると、この問題は読者側の意識改革で済ませるには難しいのではないでしょうか。